2021年01月25日
松下政経塾の初代塾頭の上甲晃先生から「難有りを有難いに変えるのが、人が生きる意味である」と教わった。
松下政経塾とはパナソニックの創業者で偉大な経営者の松下幸之助氏が85歳のときに立ち上げたリーダー養成機関である。政治家を多数輩出し、なかには総理大臣になった人もいる。現代の松下村塾(吉田松陰が主宰し高杉晋作らを輩出した)という評価もある。
その立ち上げに際し、幸之助さんから塾頭として任命されたのが上甲晃先生である。松下電器の課長だった。湘南の塾の施設に住み込みで塾生の指導に当たられた。独立後もリーダーを養成する人間教育の仕事をされている。
某企業グループがリーダーを養成する教育機関を立ち上げ、上甲晃先生や現松下政経塾塾頭の金子一也先生らが講師を務めている。著者(福永)は金子先生の紹介で講師の一人となり、「人間的魅力」と「戦略的思考」の両極を併せ持つものがリーダーであることを指導してきた。「歴史に学ぶリーダーシップ」をメインに教えている。その塾ではランチェスターはサブ的で、別の集まりで教える機会がある。そのご縁で、上甲先生のお話を聞く機会がある。冒頭の「難有りを有難いに変える」との言葉を教わった
生きていれば、辛いことや苦しいこと、難しいこと、嫌なこともあるだろう。まさに人生とは難有りである。この難を受け入れて、乗り越えるべく取り組むことで人間は成長する。成功すればあのときの難があったから今日があると思える。難有りは有難いと。
上甲晃先生は松下幸之助氏から、幸之助氏が成功した理由を三点であると聞いた。第一は学歴がなかたおかげ。第二は身体が弱かったおかげ。そして、第三は実家が貧しかったおかげ、という。どれも「難」である。ハンディキャップである。
幸之助氏は家が貧しかったので、小学校4年の時中退して丁稚奉公で働く。子供だから夜には母が恋しくもなる。給料はわずか5銭だった。家が豊かであったなら、5銭ではやっていけないと実家に逃げ帰っていたかもしれない。家が貧しかったから5銭でもうれしかったので、仕事を続けることができた。
幸之助氏は生まれつき体が弱く、8人兄弟中7人とも肺結核で死んだ。彼自身も血を吐いた。養生すれば直ると医者に言われた。会社勤めはできないので、自分で会社を興すことにした。体が弱かったので、部下を信じるしかなかった。信じられた部下はがんばってくれた。人が育ち、会社は大きくなった。
幸之助氏は94歳まで長生きをした。丈夫な人は無理をしてしまう。無理がたたって死んでしまう。身体が弱いので無理をしなかったことが長生きの秘訣だった。
学歴がなかったことは人の話をよく聞く習慣となった。素直に謙虚に真剣に相手の話をよく聞いた。ランチェスター戦略を確立した故田岡信夫先生が松下電器で講義をしたとき、幸之助氏は一番前の席に座り、一番熱心に聞いていたと筆者(福永)も聞いたことがある。
三つの難を乗り越えたことで松下幸之助は偉大な経営者になった。
いまコロナで難有りの会社が多い。この「難」を社員の心を一つにする機会にしよう。改革をする機会にしよう。新商品、新市場開拓、新事業などの新たな挑戦の機会にしよう。何年か後、いまのわが社があるのは、コロナという難のおかげ。振り返るとコロナは有難かった。と思えるように。
「難有り」を「有難い」に変えるのが社長の器量である。